2018年05月26日

藤永田造船所

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かつて大阪に藤永田造船所という造船会社がありました。元禄時代の船大工がルーツで、維新後にいち早く近代的な造船技術を導入して、1967年に三井造船に吸収合併されるまで278年間続きました。技術力が高く駆逐艦建造の名門で、東の浦賀船渠、西の藤永田と呼ばれました。
藤永田造船所は、現在の大阪住之江区を流れる木津川を挟んで北と南に別れていました。艦これに登場する艦娘の多くが生まれた場所でもあります。昔から興味があったのですが、さすがに現地に行くのは難しいのでストリートビューで探索していたらこんなものが。藤永田造船所跡地とあります。(Googleストリートビューより)
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興味がわいて、色々と調べてみました。昭和23年に米軍が撮影した写真だとこんな感じです。(カシミール使用)木津川沿いは造船所が多い場所でした。川に沿って造船所があるのは英国みたいですね。もう一枚は駆逐艦村雨の進水式ですが、川の南側、写真の右よりに並んでいる船台のようです。対岸の建物が見えています。
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駆逐艦村雨。
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現在、造船所は廃止になっており、その跡地は、他の工場や自動車教習所、ゴルフ練習場、流通センターになり、かつての駆逐艦建造の名門を想像するのは難しいです。しかし、ごく一部に残っている三井造船の関連施設(三井造船マシナリー・サービス)に面影が残っています。奥に見えるノコギリ屋根の建物は戦前からのものです。(Googleストリートビューより)
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藤永田造船所が最初に建造した駆逐艦「藤」藤永田の名前に因んだと言われる。
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駆逐艦曙。
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駆逐艦山雲。
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駆逐艦黒潮。
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みんな大好き綾波も藤永田生まれです。
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雷は藤永田と並ぶ駆逐艦建造の名門、浦賀船渠生まれ、そして電は藤永田造船所生まれなのです!!
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2018年05月12日

旧天城隧道

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今日のブラタモリのテーマは「天城越え」でした。来週は旧天城隧道が紹介されるようです。このブログ主も以前に旧街道を河津側から旧天城隧道まで歩いた事があります。今は遊歩道として街道が整備されています。
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古い道路柵の支柱には安山岩の柱状節理ブロックがそのまま利用されていました。
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河津側の隧道口です。トンネルの幅は3.5mしかなくかなり狭いです。それでも昔は自動車が通行していたそうです。今は静かで途中誰ともすれ違いませんでした。
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レトロ調の照明。
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天井の様子。
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内部の様子。
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湯ヶ島側の隧道口。
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トンネル銘板。
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2018年05月02日

浅草凌雲閣(十二階)

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もう2月の事ですが、浅草凌雲閣(12階)の遺構が発見されたと聞いて、会社の近所なんで休日出勤の途中で寄ってきました。場所は花やしきの近くです。
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凌雲閣は解説読むと現在の花やしき通りに接していたとされていて、跡地はパチンコ屋になっているとされています。現在そこに記念碑もあります。
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しかし、今回の遺構をみると想定より数10m北側にあったようですね。
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八角形をしていた建物の基礎のコンクリートの一部と煉瓦が出ていて、建物の範囲を容易に想像する事ができます。
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ネットでコンクリート製の基礎は明治時代にありえないという人もいましたが、日本のセメントの歴史も結構古いのです。ちょうど国産セメントが出てきた頃ですね。明治維新の頃はちょうど天然セメント(ローマ式セメント)と人工セメント(焼成ポルトランドセメント)の移行期だったので混在していますが、明治20年代はポルトランドセメントの時代ですね。輸入量が増えたので国産が急がれた訳ですから。深川にあった官営セメント工場の稼働が明治8年、払い下げを受けて浅野セメントが創業したのが明治17年です。創成期の国産セメントを使っていたかもしれません。ちなみに官営セメント工場は営業をあまりしなかったので、作ってもあまり売れなかったとか。
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凌雲閣の構造資料がありました。
基礎:煉瓦造布基礎
地業:掘削深さ18尺(5.45m)
松杭の上コンクリート厚2.5尺(76cm)
支持地盤:沖積層
たぶん松杭打っていると思ったけど、やはりそのようです。軟弱な層の上なんで松杭を打って支持力を確保している訳ですね。更にコンクリート打って煉瓦を重ねて基礎としたようです。
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一部に凌雲閣である事を疑う人もいたのですが、コンクリート基礎が多角形の一部に見えるので、できるだけ真上から撮った写真で角度を測ってみました。130〜140度くらいですね。正八角形だと135度ですから矛盾はないと思います。というか、こんな角度を一部に持ったコンクリート基礎は凌雲閣以外に考えづらいのではないだろうか?という訳で、私は凌雲閣であると考えます。
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凌雲閣の推定範囲。資料によると床面積が112.4平方メートルだそうです。正八角形とすると外形の一辺が5mくらいになるでしょう。とするとこんな感じ?
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とすると、この写真の範囲目一杯に凌雲閣が広がっていた事になります。
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今は何の変哲もない下町の路地なんですが。
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念のために凌雲閣(矢印の位置)が載っている古地図を現在の地図の上に透過して重ねてみました。見事に今回の場所に重なります。今回発見された遺構が凌雲閣であるのはほぼ確実です。今のウィンズの辺りは池だったのか…良く絵葉書に出てくる十二階と池の構図はここなんですね。
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やはり、何時の時代も人は高い所に登りたがるのであろう。('-'*)
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